論理的な忠臣蔵:四十七人の刺客 [小説]
従来から散々語られてきた忠臣蔵の物語において、ただ感傷的なだけでなく、筋の通った物語として語られているのが本書。
本書は新しい歴史小説の流れの中にある、典型的ともいえる作品である。
本書が従来の歴史小説と異なる点は、筋道が通るように、説明しようとしてるところである。
従来の忠臣蔵では、主君の敵を討つために四十七人の赤穂浪士が、吉良上野介邸へ大仰に討ち入り、あっさりとその首を取って、世間の賞賛のうちに切腹すると言うストーリーで終わる。
「忠臣」を賞賛するにはそれでも良いが、常識で考えるとさまざまな疑問が浮かぶ。
・なぜ、赤穂浪士は暗殺ではなく、陣太鼓を鳴らし、そろいの陣羽織に身を固めるという、大仰な討ち入りを行ったのか?
・なぜ、吉良上野介は狙われていることを知りながらあっさりと討たれるのか?
・大石内蔵助は色町で豪遊して敵を欺いたとされるが、浪人なのにどうやって生活していたのか?
等等。
常識で考えると従来の忠臣蔵は矛盾だらけで、真実味に欠けることが分かる。
このことは歴史小説一般に当てはまる。従来の歴史小説は語り継がれた物語を忠実に再現することが良しとされていたので、かえってリアリティを損なっていたのである。
ライトノベルの世界では、昔の様に魔法が町にあふれていて当たり前、勇者は生活の苦労など無くて当たり前と言う前時代的ファンタジーは、現代においては説得力に欠ける。
「空の境界」では、特殊な能力を持った主人公だが、万能ではなく、そこそこに説得力のある理由で敵を倒す。
「狼と香辛料」では、神にも等しい能力を持ったヒロインでも、人間界の生活で困っている・戸惑っていることが描かれる。
(そこまでライトノベルに詳しいわけではないので、もっといい例は他にあるかもしれない)
歴史小説においても、そうした流れは存在しており、今風の歴史小説では、リアリティのために説得力ある構成が求められる。たとえば、牛若丸に剣の稽古をつけるのは、鞍馬天狗ではなく、源氏の落ち武者や平家の反主流派と設定されるのが主流だし、本能寺の秀吉真犯人説もかなりメジャーになった。
京極夏彦が「嗤う伊右衛門」で四谷怪談に説得力を持たせ、北方謙三が「水滸伝」で妖術等の出てこない、説得力ある水滸伝を書いたのも同じ文脈の話だ。
そうした「新しい」忠臣蔵を描いたのが本書であり、忠臣蔵としては、非常に斬新だ。
忠臣蔵を知らない人には薦めにくいが、伝統的な忠臣蔵を知っている人には、是非読んでほしい作品である。
☆☆☆☆(☆四つ)
本書は映画化もされているようです。
他のブログの反応はこちら等。
ほとんどが映画のエントリで、小説のエントリが数少ないのにはびっくりしました。映画と小説を楽しむ人の比率に差が大きすぎます。
加えて、本書自体のエントリより、京極夏彦「どすこい。」の元ネタとしてのエントリのほうが多いのが輪をかけて悲しくなります。
http://blog.livedoor.jp/lau98kh/archives/51368816.html
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